※この記事は2012年9月4日に「sososo actuvity」に掲載したものです。
ブログ記事更新が遅くなってしまいましたが、初音ミク5周年おめでとうございます。
2007年8月31日に発売されて以降、ネットにおけるクリエイティブな連鎖を常にリードし続けていると言っても過言ではない「初音ミク」は、本当に現代のエンタテインメントの在り方を問うような、大きな大きな存在へと変化していく5年間を過ごしてきたと思います。
そこそこに最初の頃から「初音ミク」での音楽制作をスタートした自分なりに、この5年間を振り返って考えてみた曲が8月31日に公開した「運命の歯車を廻して」です。
KARENTのスペシャル企画にも参加させて頂いています。
KARENT – 運命の歯車を廻して feat. 初音ミク
mp3やカラオケはコチラ。
ピアプロ – 運命の歯車を廻して
少々大げさな表現かもしれないのですが、「初音ミク」の存在は皆の「希望の星」だったと思うのです。
ヲタな人にとっては、絶対に裏切ることがない(原作ストーリーがない)2次元キャラクターとして。
ミュージシャンにとっては、歌を唄わせることができる「楽器的」な存在として。
また、注目を浴びることができなかったさまざまなクリエイターや表現者にとっては、初音ミクをシンボルとすることで人の注目を集めやすく、創作や実験の象徴として(これは悪い意味では決してありません)。
さらには、DTM(デスクトップミュージック)業界にとっては、低迷していた業界の起爆剤としても。
そして、音楽・エンタテインメント業界にとって……。
しかし、人それぞれに理想の初音ミクを描き、人それぞれにその存在を持つことは出来て、「初音ミク」を共有することはできるのだけれど、「自分の初音ミク」は人ぞれぞれで、思い描くものに差が生まれました。だから、同じ「初音ミク」のファンであっても、誹謗し合ったり、意見がすれ違ったりします。
外側から見れば「同じ初音ミク」ですが、内側から見た初音ミクは、携わる人間の数だけ「違う初音ミク」として存在します。
「初音ミクはそんなことしない」とか思ったり、そもそもそういう「意思を持ったかのような表現」自体に違和感を覚えたり、商業的に大規模に展開されることを喜んだり、あるいは悲しんだり、新曲を待ち望んだり、あるいは新曲の多さにうんざりしたり……一時話題に上がった「パチンコ化」だって、中には歓迎する人もいるでしょう。
無限です。マジで。言い出したらキリがない。
だから、「シンボル」でイイじゃないっすか、と。共有できる瞬間だけすれば良いし、できないときは「自分なりの初音ミク」の解釈で良いと思うのです。
そういうモヤモヤした思いをぶつけたのが今回の曲です。
「本当の初音ミク」は、勝手に一人一人が描けばおk。すべての人が「同じ初音ミク」を描こうとしても、無理だし、無駄だし、きっと全然面白くなくなる。
多くの人がなんとな~く感じる「(ボカロ界隈が)少しずつ面白くなくなっているなぁ」という感覚は、以前よりも共有意識が分散したことと、逆に一部でイメージが集中化し過ぎている、両極から生まれていると感じます。でも、5年も経てばそれが自然なのかなぁというのがオレなりの考えです。
千人単位のライブを平気で動かすようなバーチャルアイドルと、ネットでひっそり活動するクリエイター。その両方を受け入れてくれる存在自体が奇跡的で、発売から5年経っても「ブーム」が過ぎ去るというより、存在が一般化しているという事実。
これからも、日本発の、世界で共有できる「クリエイティブのシンボル」としての「初音ミク」にオレは期待したいなと思います。
そして、これからも「自分なりの初音ミク」に、歌を唄ってもらおうと思います。
(TEXT by 津久井箇人 a.k.a. そそそ)